国東半島峯道ロングトレイル T-2 を歩く 2014/12/26
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西叡山高山寺

太宰官内誌 下巻 豊後之九(国東郡下)
太宰官内誌によれば、「たかやまでら」だが、現在は「こうざんじ」と呼ばれている。(現船津大乗住職)
往時は、京都の比叡山、東の東叡山(関東総本山)、西の西叡山を三大叡山と呼ばれていたようだ。

歴史に関しては記録が薄く、太宰官内誌では、【六郷山定額院主目録】の高山の養老寺、また、【院主目録】の西叡山良叡山圓徳寺の記録が紹介されている。

高山寺は、本山本寺(学問の場)のひとつとして、六郷満山の寺院を統括していた。
【六郷山定額院主目録】の高山の養老寺の記載では、四十五坊の規模とされる。

西叡山八合目、標高480メートルの現在の場所に、高山寺が再興されたのは、1984年(昭和59年)。
元来の場所での再興ではない。

建屋は、寄せ棟造りの屋根で、富貴寺の宝形造りを模していると云われる。
境内、駐車場からの眺望は、国東半島の山並みを一望出来、左手には周防灘が広がる。


焼失に関する物語
 
西叡山高山寺は、江戸時代初期に尼さんの付け火で焼失してしまったとの云い伝えがあります。

西叡山高山寺の七堂伽藍は立派で、一枚の扉を開けると、他の扉も一同に開く不思議な扉を持つお寺であるとの話を京都比叡山が聞きつけ、比叡山が寂れてきたのは、豊後の国六郷満山の「不思議な扉」の所為であろう。この秘密を解き明かさなければ日本一の比叡山は負けてしまう。・・と、京より尼さんを使わしました。

尼さんは、修行僧に紛れて高山寺を建てた大工から、からくりを聞こうと奔走しましたが、その大工と恋に落ちてしまいました。比叡山からは、「秘密の扉」について再三の催促を受けました。尼さんは、恋をした大工から離れたくない強い思いから、高山寺を燃やしてしまえば秘密の扉は燃えてわからなくなったと言い訳が出来るだろう。また、高山寺が燃えてしまえば比叡山の反映も復活し、私の役目も無くなるだろうとの思いで、高山寺に火をつけました。

火の勢いは強く、あちこちへも飛び火し、尼さんの着物にも火がつき燃え出してしまいました。その火を消そうと、中恩寺前のイゼに飛び込みましたが、イゼは深く、尼さんは溺れ死んでしまいました。

村人は、今でもその場所を「ピクニがイゼ」と呼んでいるそうです。

ピクニ:比丘尼・・尼さんの事
イゼ・:井堰・・水をせき止めたり分水する為の人工的構造物


高山寺駐車場  スタート
いつもの仲間に誘われて、今日は、西叡山高山寺から並石ダムまでの、約16kmを歩きます。
私も一緒に歩く仲間も、「国東半島峯道ロングトレイル T-2」区間を通しで歩くのは、今日がはじめてです。

8時半、並石駐車場に集合し、1台に乗り合わせて、T-2コース出発地点の西叡山高山寺の駐車場へ・・・

今日の参加者は、佐藤重三、堀田富夫、後藤政司、高橋誠一の4名です。もう2名参加予定でしたが、急用で欠席となりました。
外気温は1℃・・結構寒い。 9時西叡山高山寺駐車場を出発しました。


コンクリート舗装道を300m程下ると、コースは、進行方向右手の山道に入ります。小さな標識が木の枝に縛り付けられています。見落とさないようにね。 黄色い「水源かん養保安林」の看板があります。

黄色い矢印の先に表示板がありました。


ここから山道を250m程進むと、左へ下る分岐となります。ここも左手の木に小さな表示が縛り付けられていますので、見落とさないように。

分岐が確認できたら、トラロープと標識とカラーテープ(マーク)を頼りにひたすら下っていきます。

黄色の矢印の先に表示板が縛り付けられています。


地図の等高線が示すように、谷筋沿いに下っていきます。 この区間は、立木しか無く、地図が頼りになりません。木々に付けられたマークや表示板が唯一の頼りとなります。
しっかり標識板とテープを見つけながら進みましょう。
コースは、足下がガレ場でやや歩きにくいが、自然林の中を歩く気持ちいコースです。

表示板とマークテープです。

こんな標識も・・いいね!

標識板とカラーテープが確認出来ました。

次の分岐にたどり着きました。 目の前には、イノシシや鹿除けの金網がありました。 金網のゲートを開けて、県道35号線から小崎に通じるバイパス道に出ます。・・・金網のゲートは元通りにしっかり閉めておきましょう。

金網をあけてバイパス道へ出ます。 コースマップにはこの道路がありません。(地図には点線が見える。)・・部分的な拡大地図があれば良いかな?

さて、どっちだろう? 地図をしっかり見て・・・    高山寺から約1時間